2017. 03. 23  
前回のように、大西監督の『ゲーム経過』を読んでみて、いまさらながらに、思い出すのは、、、

このNZ遠征最大の目標とする敵に対 して、3年という期間をかけて、『如何に意図を持ちつつ、周到に準備 した戦略、戦術を、完璧にやり遂げたゲームだったか』を、ヒシヒシと感 じるということ。

まず、ディフェンスで、『ローゲームの戦い』に持ち込むために、徹底 したシャーロー・ディフェンス敢行、『経過』に出ているとおり、ビッグタックル連発 、そのタックルでの敵ミスに乗 じ、『ディフェンスでトライをとった』こと。
あるいは、通常であれば20%~30%のポゼッションを、ディフェンスによる敵ミス誘発で、マイボール・セットプレーに持ち込み、『アタックの増』に、結びつけたのも、勝因にあげられること。

そして増やしたアタックでのトライが、全てBKのセットプレーからのワンフェイズ、すなわち『一発トライ』であること。如何に『FWの懸命の球出 し』を『BKの仕掛け段取りもよく正確に遂行 しトライに結びつけているか』、ということ。

まさに、この『彼我の実力情報収集、判断の上、自チームが出来ることを積み上げてどのようにゲームを創っていくか』、これが、『大西ラグビーの真髄』なのであり、また自画自賛で申し訳ないが、理論を実際の現場で具現できたプレーヤー達努力の賜物ではなかろうか。

故に、ルールも変わり、現代のプレーヤーが出来ることも変わった・『現代の日本ラグビー』に関しては、この50年前の『日本ラグビー』を、ただそのまま真似 をしようとしても出来ないわけで、いま、大西鉄之祐が生きていたなら、『現在の現場をよく洞察 して、どのように再構築 しようとしただろうか』という視点、考える必要があるのではなかろうか。

なお同様のことが『大西鉄之祐著、わがラグビー挑戦の半世紀』に、『寸評』として書かれているので、次回に、これも転載させて頂こう、、、


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2017. 03. 21  
オールブラックスjr戦 ・ 『後半の経過』を、大西鉄之祐著、『わがラグビー挑戦の半世紀』より転載、、、前半は、日本17-11ABで、日本がリード
(註 : 当時の得点は、トライが3点、コンバージョンが2点、PG、DGが3点)

後半2分、日本ゴール前ラインアウトで、ペナルティをとられ、AB・PGポストに当たり不成功

4分、日本陣左側より右攻撃、AB・CTBロングキックをインゴールへ、石田押さえて、ドロップアウト

8分、AB陣25ヤード中央ルースでABピックアップ、桂口PG狙うも不成功

13分、日本ゴール前ラインアウトをABモールし、その球を第一FE ドロップゴールを狙うも不成功

16分、AB自陣より右オープン攻撃、CTBパントを万谷ハンブルするのを、そのまま拾って、中央にトライ(17-16

20分、日本陣30ヤードでピックアップをとられ、AB、PGを試みるも失敗

25分、AB陣左25ヤードセットより、右にオープン攻撃、万谷加入 して(註:これはカンペイと思われる)、伊藤独走、右中間に見事なトライ(20-16

26分、日本陣25ヤードでピックアップをとられ、AB、PGを狙うも、ポストに当たる

30分、中央線右ラインアウトより左オープンに攻撃、尾崎、横井のコンビで横井抜け、FBを引きつけ坂田にパス、中央に回り込んでトライ(23-16
(ゴールキックは、モーション開始の時期の見解相違で、チャージされた)

34分、日本陣右25ヤードラインアウトから、AB左オープン攻撃、クロスのサインプレー功を奏して、WTB左隅にトライ(23-19

ということで、さすが大監督綿密なメモを残しておいて頂いて、感謝であり、そして、なぜか映像が残されなかったゲームの詳細を、初めて、思い起こすことが出来たというモノで、まことに感慨深いものなのであります。

この『歴史的なゲームの勝利の経過』を読んでもらい、皆さん方には、どのように感じて貰えたのだろうか。


2017. 03. 19  
先に、輝かしきゲームを創った・『出場選手の名前』を、記載しておくと、、、
①川崎、②後川、③猿田、④堀越、⑤小笠原、⑥井沢、⑦石田、⑧石塚⑨大久保、⑩桂口、⑪坂田、⑫横井、⑬尾崎主将、⑭伊藤、⑮万谷

1968年6月3日、オールブラックスjr戦前半の経過』を、大西鉄之祐著、『わがラグビー挑戦の半世紀』より転載
(註:当時の得点は、トライが3点、コンバージョンが2点、PG、DGが3点

前半2分、AB(オールブラックスjr)が、日本30ヤード陣中央にて、PG成功 (日本0-3AB)

3分、キックオフの球をABモールで球出し、第一FE ショートパント、CTBが日本バックスの背後で拾ってWTBにパス、右中間に見事なトライ(0-8

6分、AB陣右30ヤードラインアウトで、ナット10ヤードのペナルティを、日本とるも、桂口PG失敗

7分、AB陣25ヤード中央スクラムを、日本が押したために、ABバックスがオフサイド、桂口PGを決めて(3-8

10分、AB陣より右オープン攻撃、日本バックスの防御うまく、横井完璧なタックル、相手のこぼれ球を、坂田切れ込んで拾い、右隅にトライ(6-8

14分、日本陣左隅の混戦からAB・FW左ライン際を突進、あわやトライかと思われたが、桂口の猛烈なタックルでタッチフラッグに当たり、ドロップアウト

17分、AB陣25ヤード右ラインアウトから、日本左オープン攻撃、尾崎ゴロパント、相手FBハンブルするところを、坂田拾って左中間にトライ(11-8

25分、日本、 ABゴール前で終始攻撃、スクラムよりオープン攻撃、尾崎、横井の連携プレーで、横井タテに突いて、左中間にトライ(14-8

27分、日本陣25ヤードでドリブル・オフサイド、AB、PG成功(14-11

29分31分、ABゴール前に攻めるも、 大久保のオフサイド、後川のフットアップで、タッチに逃げられる

35分、AB陣10ヤード、日本スクラムから左オープン攻撃で、桂口、尾崎とクルリ(ループ)で、横井抜けて坂田にパス、独走、左隅にトライ(17-11

38分、ABバックス攻撃を横井絶好のタックル、坂田こぼれ球を拾いパント、あわやトライかと思われたが、左中間でキャリーバッグ

40分、AB陣25ヤード左スクラム、日本オフサイド取られ、ハーフタイム

前半日本17-11AB日本リードで折り返す。長くなるので、後半は、次回に、、、


2017. 03. 17  
さて、 NZ遠征第一戦からの戦績を書くと、5月11日オタゴ州代表33-26全日本、15日ノースオタゴ州代表17-5全日本、18日NZ大学選抜32-19全日本、22日にはカンタベリー大、リンカーン大混成41-22全日本、と4連敗して、グレイマウスという田舎町に着いた我々に、『大きな試練』が、 待っていたのである。

ニュージーランドは、地球の南半球と北半球という日本と真逆の位置にあるが、緯度的には似通っており、日本と同じ南北に細長い島国気候も日本と真逆だが同様に温暖(ただしNZでは南が寒く、北が温かい)、ゆえに、 NZの5月は半年違って、日本の冬・11月に相当するなど、親しみ易さがあり、さらには、火山活動が活発というところまでもが、一緒だったのである。

そのニュージーランドで、何が起きたかと言うと、『大きな地震』が起きたのである。ホームステイ先の状況で、各人の感じ方は様々であったが、『本当に死ぬかと思った』ほどの恐怖を味わったメンバーもいたのである。

しかしこの地震が、我々の気持ちを『覚醒』させたのである。地震後、ようやく全員集まったところで、尾崎キャップテン主導のプレーヤー達だけミーティングを開き、そこで「我々は、この地に何をしに来たのか? ラグビーで勝つために来たのじゃないのか! このまま負け続けでは、日本に帰れないぞ! 勝ちに行くぞー!」との決意を、再確認できたのだった。

そこからは、なんと5連勝、その中に伝説のゲーム・『オールブラックスjr戦の勝利』があるわけである。
当時は、まだ16ミリ映画すべてのゲーム撮影し、公開するという時代、しかしNZラグビー協会は、『この敗戦を、恥じたのか?』、その後に日本撮影フィルム要求しても「この日のゲームの撮影フィルムはない」と強弁未だに、このゲームの映像は、見れないのである。
(私が現場復帰後に編集、公開したものは、遠征最終戦のNZ大学選抜戦

当然、全日本側でも『8ミリフィルム』で、撮影担当の島崎選手に撮らせていたのだが、ナント、この島崎が『全日本の素晴しい戦いぶりに感動 してしまい、ファインダーから見るのじゃなくて、実際の肉眼で見ていたものだから、映像地面しか映ってなかった)』ということだったのである。

だが今回、例の大西鉄之祐著、『わがラグビー挑戦の半世紀』を見てみるとこの『世界に日本ラグビーの真髄を披露し、認識させた歴史的なゲーム』の詳細を、さすがの大西監督が、『ゲーム経過』として、 書き残してくれていたので、次回に、転載させて貰おう、、、


2017. 03. 14  
1968年5月7日戦法統一した全日本は(海外遠征時はALLJAPAN)、初のNZ遠征へ、羽田を出発したのであった。便の都合で香港を経由、2日がかりで、NZ・ダニーデンへ着いたのは、夜の10 時を過ぎていた。

そこで驚いたのが、選手23名ホームステイ(民泊:先方のクラブの個人宅へ宿泊)で、空港から即バラバラに引き裂かれ、一人、あるいは二人づつになって、宿泊先の人に迎えられ、車に乗せられて街灯もない真っ暗な道を、ひたすら郊外へ連れて行かれたことである。
私は万谷と二人で、少しは英語も喋れたので、なんとかなったが、英語も喋れず一人で連れていかれた者は、「どこへ誘拐されるのだろう」と思ってしまうほどで、たまったものではなかったろうと推測されたのである。

そして、お休みの挨拶もソコソコに、案内された冷たい寝床に、潜り込んで寝たのだったが、翌日、目が覚めて外を見ると、大牧場真っただ中、隣の家も見えない一軒家だったのである。
朝食は、 パンとコーヒーのみ、ただし、 台所マトン(羊) の匂いが充満していて、異様な雰囲気、さらに食べ終わると、そこの主人から「オイ、小学校へ行くから、準備しろ!」と命令され、 またもや車で学校へ行き、朝礼台に立たされて、小学生代表からインタビューを受けさされたのである。(当然、子供でも、えらそうに英語で聞きよる、、、

まぁ―、そんな状況で、大いなる環境変化に『ドップリ疲れ』、メンタル面は、メチャメチャ、練習のためにグランドに集まった時だけが、みんなと会えて、日本語が喋れると、『ホッとする瞬間』なのだった。

それと、もう一つ大きな変化は、グランドの芝が、 『グラース』と言って、若干粘土質の柔らかい土の上に茂る『丈の長い草』である上に、雨でも降ればジュクジュクになり、我々のような足の短い者にとっては、苦手も苦手の地獄ということで、フィットネス上も大変なシロモノだったのである。(後半の20分過ぎには、足が重くて走れなくなる)
本来なら、そんなことは理由にしてはいけないことながら、初の海外遠征で、そうはたやすく慣れる筈もなくて、『展開、接近、連続』を具現するどころか、ずるずると4連敗を喫したのであった。

さて、この状況から、どうして抜け出すことができたか、、、次回に、、、


プロフィール

Yokoi Akira

Author:Yokoi Akira
横井章(よこいあきら)

ラグビークリエイター
現役時代は左CTB、ジャパン10年で17キャップ
    (当時は、キャップ対象試合が少なかった)

1968年、オールブラックス・ジュニアに勝利
1970年以降5シーズン日本代表の主将を務める
    (いまだに、歴代最長記録)
1973年、英仏遠征、日本ラグビー史上初の海外
     テストマッチ、当時世界最強のウェールズ
     と対戦、写真は、その時の幻のトライ
2000年、現場に戻り、100数チームにアドバイス

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