2014. 07. 02  
昨日、早稲田大学ラグビー、また全日本(ALL JAPAN、当時は、こう呼んでいた)の数年後輩の「井澤義明君」の訃報に接し、ただただ驚いている。

私が1974年、33歳で全日本の現役を退き、その後26年間の空白の後、
15年前の2000年に現場に戻ったのは、「井澤君の勧め」に依るところが
大であったからである。
というのは、私の空白時の間、彼は事あるごとに函館から京都へ電話をかけて来て「横井さん、日本のラグビーがおかしい、なんとかしてやって下さい」と言ってきていたのである。

彼は1968年、全日本の初めてのニュージーランド遠征時に、早稲田大学生でありながら、そのタックル力で選ばれ、まさに、その遠征時メインのオールブラックスJr戦に出場、大西ラグビーの「接近、連続、展開」のもっとも重要な「接近ディフェンス・外人が見たこともない究極のシャローディフェンス」の一員(究極のシャローディフェンスは、トコトン前に出るCTB・尾崎、横井と、それをバックアップするFW第3列・石田、井澤、石塚で形成)として活躍、23―19でオールブラックスJrを撃破、そのことを恥じたニュージーランド協会は、その映像を秘かに隠し、未だに行方不明となっている。
それゆえ、10数年前に日本のチームのほとんどが「待ちディフェンス」になってしまった時に、大変な危機感を覚え、私に必死に訴えかけていたということのようであった。

そして、また丁度そのころ、「桜とシダの会・当時の全日本OB中心の会」の函館遠征で、井澤宅を訪れた際、1971年のイングランド代表来日(1968年オールブラックスJrに勝ったことで、ジャパンが世界で認められ、初めての国代表同士のテストマッチとして、イングランドが日本に来た)の際のVHS
テープの映像を彼が所有していて、30年ぶりに見せてもらい(私は引退後、ラグビーの試合を見たこともなく、自分の出た試合の映像も見たことがなかった)、特にイングランドとの花園での第一試合、主将でありながら開始10分ほどで負傷退場、また、伝説の第二試合・3-6のゲームにも出れなかった映像と、その後の現代日本ラグビーの映像を見比べてみて、驚いたことがあったのである。

すなわち、花園の第一試合の前日書いた「寄せ書き」に、大西監督は「日本ラグビーの創造者たれ」と書かれたのであり、その横に、主将の私が「逃してなるか、この機会」と書いたのだったが、「負傷退場で、見事にその機会を逃した」のだった。(笑)そして、大西監督に「攻守ともに前に出る日本ラグビーで、テストマッチ初勝利を献上し得なかった・大きな忘れもの」のことに思いを致し、「なんじゃ、このラグビーは?」と、 見てびっくりした「前に出ない現代の日本ラグビー」を、「何とかせんとイカン」と強く思ったのが、現場に戻る大きなキッカケになった次第。

井澤君、本当にありがとう。君の分まで、まだまだ頑張るぞ、合掌。


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プロフィール

Yokoi Akira

Author:Yokoi Akira
横井章(よこいあきら)

ラグビークリエイター
現役時代は左CTB、ジャパン10年で17キャップ
    (当時は、キャップ対象試合が少なかった)

1968年、オールブラックス・ジュニアに勝利
1970年以降5シーズン日本代表の主将を務める
    (いまだに、歴代最長記録)
1973年、英仏遠征、日本ラグビー史上初の海外
     テストマッチ、当時世界最強のウェールズ
     と対戦、写真は、その時の幻のトライ
2000年、現場に戻り、100数チームにアドバイス

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