2017. 01. 25  
早稲田大学のラグビーは1919年頃(大正8年)から始められ、その数年後の1927年(昭和2年)に、当時の学生が『進取の精神』で、オーストラリアへ遠征し、外国ラグビーを吸収し、『独創の研鑽』で研究改善を加えた『展開ラグビー・ゆさぶり戦法』を確立したという。そしてなんと1899年から始めて日本のチームには無敗だったルーツ校の慶應義塾に、その年の早慶戦勝利するという快挙を成し遂げたと聞いた。

そして、その戦績だけでなく、入試制度が厳しく、良い素材を集めるのが難しかった早稲田は、小粒ながら俊敏な動きと、組織的な連携でチームプレーを磨きに磨き知恵と鍛錬で「小よく大を倒すラグビー」を目指したと聞かされさらに、その早稲田独自の戦略、戦術スキルの取得については、毎年、『 上級生が下級生に教える』ことが出来るという『早稲田ラグビー部としての文化の伝承』が、脈々と引き継がれているのだとも聞かされたのである。

故に、私のような『ど素人』であっても、イヤ素人だからこそ先入観なく白い紙にインクが滲みる如く、そのカルチャーを吸収できたのではなかろうか。

なお、ここまでチョット、 早稲田贔屓に書き過ぎた感があるので、おことわり
しておくと、当時どこの大学生も、目標を持って身体を鍛え、体育学系活動を必死にやっておりラグビーでも、ルーツ校慶應は『魂のタックル』、明治は『前へ』など、それぞれオリジナルな考え方で取り組んで、その学校独自の伝統を引き継ぎ、お互いに切磋琢磨し、日本のラグビーの中心勢力として、頑張っていたというのである。

その頃、 大西さんは、1950年から4年第一回目早稲田大学ラグビー監督をされ、早慶戦、早明戦で連覇を続け、来日したオックスフォードケンブリッジ大学とのゲームでも、早稲田ラグビーの存在感を示されたという。
そして、これらの経験でラグビーの深遠さに魅かれ、ラグビーという魔物に憑りつかれたように、内外のラグビー研究に、 打ち込んでおられたという。
その上、早稲田大学でも総長秘書という多忙な日々を送られていた時期に、早稲田ラグビー再建の重責を担う・第二回目監督要請が巡ってきたわけである。

ちょっと、 背景の説明が長くなったが、次回は話を戻して、「新生早稲田が、どんな手立てで、トライを取ろうとしたか」について、述べていこう。


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プロフィール

Yokoi Akira

Author:Yokoi Akira
横井章(よこいあきら)

ラグビークリエイター
現役時代は左CTB、ジャパン10年で17キャップ
    (当時は、キャップ対象試合が少なかった)

1968年、オールブラックス・ジュニアに勝利
1970年以降5シーズン日本代表の主将を務める
    (いまだに、歴代最長記録)
1973年、英仏遠征、日本ラグビー史上初の海外
     テストマッチ、当時世界最強のウェールズ
     と対戦、写真は、その時の幻のトライ
2000年、現場に戻り、100数チームにアドバイス

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