2017. 03. 11  
さて『展開、接近、連続』、前回は『話が分かり易いアタック』につき書いたが当時の全日本外国チームに勝つには、『敵をロースコア抑え込むことが出来なければ、点の取り合いでは勝算ナシ』ということは理解されており、本当に大事だったのは、3月3日の記事でも書いた、最後に付け加えられた『シャロー・ディフェンスの採用ディフェンスの接近)』ではないかというのが私が常々「接近が先だろう、『接近、展開、連続』やろう」と言っていた根拠である。
結局は、その後1968年NZ遠征1971年のイングランド来日1973年の英仏遠征と、世界でジャパンが認識されていった経緯の中でも、一番に、『日本オリジナル戦法』として全チームに恐れられたのは『外人には考えられないほどに、前へ出るシャロー・ディフェンス』ではなかっただろうか。

ならば、そのディフェンス・システムは、どのようにして創られていったのか、書いてみると、、、
(ただし、当時では、スクラム時のディフェンス・オフサイドラインは、自チームスクラムの最後端ラインアウト時は、現在と同じく10mうしろであったのを要勘案のこと)

シャロー・ディフェンス基本概念は、『動き出す前に、間合いを詰め、追い込む』こと、即ち、「スクラム時には、アタック側の外肩より1m外の立ち位置から、距離10数mを3段走で詰めて、基本的には内側のCTB(現在で言う1CTB)が、低い姿勢で肩でガッツン・タックルする」、「ラインアウト時には、外側のCTB2CTB)がガッツン・タックルする」とし、さらに、これに合わせて『FWの第三列』のバッキングアップを、BKが前へ出る分だけ斜め前に修正しBK縦のディフェンスと、FW第三列の横のディフェンスで『網の目』をつくり、倒 し切れるように鍛錬するというモノだったのである。

そのシステム構成員に、大西監督が目を付けたのが、『えげつないタックルが出来る奴』だったのである。BKでは、まず、 左右CTBの2人を探したが、眼鏡にかなったのは、SOでキャップテン候補だった尾崎と、左CTBの横井が浮上、故に尾崎を右CTBにコンバートして、BKの2人を確保した。
尾崎は村野工高時代に、新井氏 ・ 元全日本、早稲田OBでもあって強烈タックラーとして有名な先輩に、薫陶を受けていたのをオヤジは知っていた)

また、 FWえげつないタックラーとしては、石田(法政)、井澤(早稲田)の両フランカー、石塚(同志社)・№8の3人が確保され、これによって『シャローディフェンスの網の目構築』の目途が立ってはじめて、このシステム強力な鍛錬が推進されたと推測されるのである。

そして、この『シャローディフェンス』が、その後世界を相手の戦いに、大変な成果をもたらし、外国チームの戦略、戦術変更にまで影響を及ぼすほどになったのである。


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プロフィール

Yokoi Akira

Author:Yokoi Akira
横井章(よこいあきら)

ラグビークリエイター
現役時代は左CTB、ジャパン10年で17キャップ
    (当時は、キャップ対象試合が少なかった)

1968年、オールブラックス・ジュニアに勝利
1970年以降5シーズン日本代表の主将を務める
    (いまだに、歴代最長記録)
1973年、英仏遠征、日本ラグビー史上初の海外
     テストマッチ、当時世界最強のウェールズ
     と対戦、写真は、その時の幻のトライ
2000年、現場に戻り、100数チームにアドバイス

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